ヨハネの手紙Ⅰ 第1章8~10節
2005年5月29日
北川一明
Ⅰ.前回の学び(青年会レジュメによる)
☆いらだちの原因とその解決
①肉体的領域 原因:極度の緊張と披露/解決:休息
②霊的領域 原因:神との関係の喪失/解決:悔い改め(1Jn1:9)
②霊的領域 原因:神との関係の喪失/解決:悔い改め(1Jn1:9)
☆問題点
罪を言い表わす(率直に承認する)とは何をすることか(1Sm15:30)
Ⅱ.罪を言い表わして平安を取り戻した例
① 教会生活を続けてきた老人が、過去の実績と高齢という現状から、自分を敬われるべき人間とみなし、教会内でそう取り扱われるように期待した。その時、ひとから嫌われ疎まれるようになった。教理に従えば、そんな自分は罪人でありながら赦されている存在である。教理をよく知る件の老人は、公の場で「私は罪人です」と公言すること、言葉でそう祈ることは出来たが、それでもひとから嫌われたままだった。
② ある時、そんな人間のためにキリストが十字架で死んで自分が赦されたことに思い至った(「過去の行ないを率直に反省した」と換言できるような「罪の告白」ではない)。
③ その後、神と隣人に感謝するように変わって、周囲から愛されるようになった。その回心後の生活は、もちろん「仕合わせ」である。しかしその仕合わせの源である転換点は自分の罪とその罪が赦されていることに気付いた②の瞬間である。その後の結果として受けた喜ばしい扱いよりも、自ら罪に気付いた瞬間の驚きと悔恨の感情が、そのまま至福の幸福感でもあった(という)。
Ⅲ.聖書研究
A.サムエル記
サウルも率直、正直に自らの過ちを認めている(24、30)。ただし神との関係において罪を理解しているのではなく、サムエルとの関係で「命令違反」を「認識」しているに過ぎない。
B.1ヨハネ1:8、10
「自分を欺く(8)」とは原文は「自分自身を誤らせている」であり、それは道徳や規則の違反ではなく「真理」と自分自身との関係を見誤ることである。サウルはサムエルの命じた事柄に違反したことは率直に認めたものの、それを「真理(神)」との関係で理解することができていない。
したがって、「神を偽り者とする(10)」という言葉も人間が選択する態度の問題ではない(人間が神を真理とみなすか/虚偽とみなすかという態度の問題ではない)。罪を認識しない(できない)ことは、すなわち真理(神)と関係しない(できない)ことである。
したがって、「神を偽り者とする(10)」という言葉も人間が選択する態度の問題ではない(人間が神を真理とみなすか/虚偽とみなすかという態度の問題ではない)。罪を認識しない(できない)ことは、すなわち真理(神)と関係しない(できない)ことである。
C.1ヨハネ1:9
1.「告白」と「赦し」の順序
告白と赦しを人間の知る時間で順序をつけることは不適切。「罪の告白がなければ赦しがない」と言って誤りではないが、順序を強調すると「赦し」が神の恩恵ではなく人間の「反省行為」に対する「報酬」になってしまう。
むしろ回心の現実を見れば、「キリストによる罪の赦しを知った後でしか罪を理解することができない」とも言える。
むしろ回心の現実を見れば、「キリストによる罪の赦しを知った後でしか罪を理解することができない」とも言える。
2.「告白する」とは何か
「率直に告白する(青年会テキスト)」と言っても、人間の心情としての「正直さ」「率直さ」は必ずしも真理と関係するわけではない(サウルも心情的には率直であった)。これも「赦しという報酬を得るための行為」と捉えるべきではなく、むしろ罪に気付かせていただいた恵みに対する結果と理解したい。
「告白」とは公に宣言することであり、礼拝中に会衆の面前で公に戒規を執行されることを想定している。本当に罪に気付いた時には、礼拝中に神の御前で罰を受けたい気持ちになるし、教会によって戒規を執行していただくことが出来れば感謝としてそれを受けることができる。「罪を率直に告白する」ということを人間の側の「心情」として考えるならば、そのような礼拝態度を言うべきであろう。
「告白」とは公に宣言することであり、礼拝中に会衆の面前で公に戒規を執行されることを想定している。本当に罪に気付いた時には、礼拝中に神の御前で罰を受けたい気持ちになるし、教会によって戒規を執行していただくことが出来れば感謝としてそれを受けることができる。「罪を率直に告白する」ということを人間の側の「心情」として考えるならば、そのような礼拝態度を言うべきであろう。