選ばれた人たちへ

北川一明

Ⅰ.
今日は、みなさんとペテロ第一の手紙を囲んで新しい週を始めることができました。たいへん嬉しいです。この聖書が、今の私どもの境遇にぴったりだからです。
外国で暮らしている時、祖国から、愛する人の手紙が届いたら。私ども、喜び勇んで封を切ります。
今日の聖書は、『ペテロの手紙』という標題にあります通り、手紙として書かれたものです。そして受取人は、1節の最後にあります「離散して寄留している人たち」です。本国を離れて、家族や親戚とちりぢりに別れて外国に身を寄せている。そういう人に宛てて、イエスさまとずっと一緒に過ごしていたペテロや、その仲間たちの書いた手紙が、届けられたのです。
外国で暮らせば、新しい発見や、いろいろな楽しみが、もちろんあるでしょう。しかしそればかりではありません。留学ですとか、会社の栄転ですとか、喜ばしい理由で来ているかたであっても、自分の国で暮らす・そのままでは居られません。
それが、この手紙は2000年前です。「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」に住む人たちは、言葉の不自由な中で、外国人として迫害を受けながら、暮らしていました。
そんな困難に苦しむ聖徒たちを、この手紙は祝福し、励まします。「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、イエス・キリストの現れるとき(6節)」、それが「さんびと栄光とほまれとに変る(7節)」と、言われている。そういう手紙です。
もっとも……じゃぁこの手紙は、異国で暮らすひとのために書かれたものかというと、そうではありません。どこで暮らすかは関係ない。この世で暮らすクリスチャンに宛てて書かれたと言った方が良いかもしれません。
クリスチャンが、この世を生きるのは、不自由な外国で暮らすのと良く似ている面が、あるからです。この世は、私どもにとっては、異邦の地です。暮らし辛い、困難な場所なのです。
この前、青年会の集会にご一緒させていただきました。その時、「クリスチャンとお酒」についてが、話題になりました。
韓國教会の皆さんは、道徳の面で、たいへん真面目です。お酒は飲まない、たばこは吸わないというのが一般的なようです。
しかし、そうしたクリスチャンとしての生活を守ろうとすると、大学で/会社で、大きな摩擦がある。周囲のひととギクシャクして苦しまなければならないということが、話題に上がりました。
「その程度の苦しみは、イエスさまが十字架で苦しんだ苦しみに比べたら、何でもない」と言われたら、その通りです。
ですが、私ども、神に愛され、祝福されて、こうして教会に導かれたはずです。それなのに、その「教会生活のために苦しむのはどうしてか」と。そう考えると、今の自分の信仰に不安になってしまうのも、また当然かもしれません。
神に愛され、祝福されて教会に導かれたのに、なぜ今も苦しむのか。それは、この世が、私どもの本国ではない、仮住まいの地だからです。
私どもは、天の神さまの御許を離れて、いっとき地上を生きる命を与えられました。ですから私どもは、祖国を離れたひとが異邦で苦しむように、ある程度の苦しみは、味わわなければならない。もちろん、地上ならではの喜びが、あります、楽しみもありますが。異邦人としての苦しみも、味わわなければならない。
しかし「今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならない(6節)」としても、「金よりもはるかに尊い(7節)」、「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者(4節)」なのだ……と。
私どもが、この世を、どうもうまく生きることが出来ない。この世の異邦人として、仮住まいの命として、苦しみがあるのならば。そのことが、かえって、私どもには帰るべき本国があることを証ししているのだ……と。……今日の聖書は、それを伝えていると思うのです。

Ⅱ.
もっとも・それは、クリスチャンに限りません。全ての人(について言えること)です。
私は、洗礼を受けるより前から、自分で勝手に聖書を読んでいた頃から、特に、このペテロの手紙が好きでした。読者を「離散して寄留している人たち」と呼びかけてくれるところに、惹かれていました。
外国に暮らしていたのではありません。自分の国で、安全に暮らしながら……。しかし・その生活が、何か、本当にぴったりとしているワケではない……と。そんな不安が、いつも心の隅にあったからだと思います。
思春期です。カミュ(Albert Camus)の『異邦人(L’etranger))』などに憧れていたのと同じ頃です。世の中は、楽しい、面白いものかもしれませんが。同時に、どうも生きにくい……。いつも何かが違っている。そういう所が、あるのです。
その頃から、この手紙がずっと好きだったものですから。洗礼を受けてからは、「ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤおよびビテニヤ」という所に行ってみたいと願ってました。
真面目に、ねばり強く祈っていたら、たいていのことは実現するようですが……。私の場合は、だいたい40%位の真剣さで祈っていたのでしょうか。この5カ所のうちの2カ所、ガラテヤとアジアを旅行する機会を、神から与えていただきました。
神学校を卒業してすぐ、妻と結婚して、新婚旅行に行きました。
最初、アジアに行きました。アジアというのは、日本や韓国や……私どもの言うアジアとは違います。聖書に『エペソの信徒への手紙』というのがあります。今のトルコ共和国で、エペソを中心とする一帯です。エーゲ海沿岸だからでしょうか、空は真っ青で。エペソの遺跡があるのですが。大理石の建物が青い空を背景に白く輝いて、とても綺麗でした。
そのあと、少し南に移動して、タルソという、使徒パウロが生まれ育った所に行きました。そこは地中海沿岸です。たいへん過ごしやすくって、3月なのに半袖のTシャツがちょうど良い位でした。
当時は円高で、またトルコは物価も安くって。私どもは、タルソではちょっと高級なシーフードレストランに通いました。毎晩、地中海の海の幸を楽しみました。それでも日本で生活をするよりは安くって。生涯、こんな贅沢をしたことがあっただろうかというような2泊3日間でした。
そこから長距離バスでガラテヤに行きました。ここは、トルコの首都アンカラ周辺なんですが、ところが・こんどは山の上です。吹雪でした。ダウンジャケットを着ても寒さにふるえなければなりませんでした。
ただ気候だけのことですが。ここに書いてある各地に「離散し寄留している(1)」ユダヤ人とは; もともとは、気候の温暖なパレスチナに住んでいたひとたちです。そういう人たちが、たとえばガラテヤ、カパドキアなどに住まなければならなくなったのです。
若いうちなら、良いのです。しかし「乳と蜜の流れる地(出エジプト3:3他)」に育ったひとたちが、国を追われて、歳をとってから、ガラテヤの吹雪の中に投げ出されたら。自分の人生を、嘆かざるを得ないだろう……と。なぜ、祖国を後にしなければならなかったか。それを思わずにはいられなかっただろう……。「帰れるものならぜひ帰りたい」と、祖国の、幼い頃を過ごした地を思い出したに違いないと思いました。

Ⅲ.
この手紙を受け取ったひとたちは、大部分が、祖国に帰る希望のないひとたちでした。帰ったとしても、生活するすべがありません。帰りたくても帰れない人たちです。
今住む土地では、市民権がありません。今と違って「人権を守る」なんていうことは、誰もやってくれません。言葉が話せなければ……それでも、自分で何とか生き延びるか/そうでなければ野垂れ死にするしかありません。
そんな外国にまで来なければならない、それぞれ理由がありました。事情があったのです。戦争で/あるいは親や家族や、なにかそういった事情で、祖国に居ることが出来なくなった人たちです。
自分から進んで外国に来た若い人も、いたかもしれません。野心を抱いて、希望をもって外国に来た人も、いたかもしれません。成功して、故郷に錦を飾ろうという人もあったかもしれません。
それでも……。祖国を離れて来た先での生活は、簡単ではありません。たいへんな思いをしてまで、なぜ成功しなければならないのか。やはり、故国に留まっていては、それだけでは足りない、何かがあったのです。祖国で今まで通りに生きていくだけでは、どうしても足りない何かがあったのです。
危険を冒して、わざわざ苦労するために、言葉の不自由な土地へ渡らなければならない……。それぞれに、何か理由や、事情や、抜き差しならない目標があったのです。
故国の思い出は……幼い頃の思い出は、懐かしいかもしれません。けれども、大好きな祖国であっても。そこを出る時には、もはや留まることが出来ない事情が出来た。だから、懐かしい地を捨てたくないのに捨てて来たのです。そして、そのまま故国に帰ることが難しくなった。
この手紙を受け取った人たちは、そういう離散して寄留している人たちです。
そんな人たちが住んでいる世界は。先ほど、クリスチャンのお酒のことで、少しお話ししました。自分の祖国とは、価値観が違う世界でした。自分の今までの生き方では、やって行けない世界でした。
観光旅行じゃぁ、ありません。観光旅行の「お客さん」なら、金を持ってやって来て、そのお金で楽しんで帰ることができますが。私どもは、価値観の違う人たちを相手に、自分の生活の糧を得なければならない。
何も大儲けをしてやろうというのでは、ありません。よその国で生きて行くのですから、最低限で良いのです。信用してもらわなくっちゃぁいけませんから、隣り人に対しては、なるべく誠実に接します。
それでも、自分が誠実だと思っているやり方と、相手は価値観が違うのです。こちらが精一杯にやっても、それを「誠実」だとは受け取ってくれない、どうしても信用してもらえない場合だって、あります。
そんな外国人を相手に、生きて行かなければならない。最悪(の場合)、自分の良心に反するような、自分でも「やってはならない」と思っていたことをやらなければ、生き延びることは出来なかった……。そういうことも、あったかも分かりません。
寄留し、仮住まいしている異邦とは、そういう世界です。
日本人が、韓國で生きるというのは、そういうことですし。クリスチャンがこの世を生きるとは、そういうことですし。クリスチャンに限りません。神さまに、善きものとして造っていただいた人間が、罪のこの世を生きるとは、そういう困難の中を生きるということです。

Ⅳ.
誰でも、本当に求めている生き方は。悪さをして、自分だけが得をしようということではないはずです。自分の中にある、正しい心、善い心のままにこの世を過ごして、お互いに仕合わせになることができるのならば、それが良いに決まっています。
クリスチャンであろうが、あるまいが、私ども人間は、神の尊い作品なのですから。みんなそれぞれが、誠実に、隣り人を信頼し、隣り人を愛しながら、生きて行きたいです。それが仕合わせにきまっています。
もちろん、愛し合える場面も、あります。けれども、価値観の違うヒト同士、自分が誠実に、愛をもって、真面目にやっていても。それが相手にとって善いことになるとは限りません。向こうが親切でやることが、こちらにとっては悪いことになることが、あるように。私が、誠意をもってやったことを、悪いことだと受け取られても……。価値観が違のですから、それもまた、やむを得ない。
だから「他人は信用できない」というところが、どうしても残ってしまいます。自分も、信用されない面が、残ります。お互いに、傷つかないように、警戒し合うしか、ありません。
独りぼっちで、警戒し、損をしないように、傷つかないように、愛さない、信じないで生きないと、心配です。
人間が、この世を生きるとは、そういうことです。
外国暮らしに限らず、この世を生きるとは、そういうことですが。それが外国で暮らす時に、いちばん顕著に現われ出ます。自分の国にいるよりもずっとたくさん、警戒しなくっちゃぁ、ならない。
本当は、ひとを愛して、ひとを信じて、この人生を尊く生きたいのに。自分を守るために、愛さない、信じない、気を許さない。本来は清い尊いものであったハズの自分の心を汚しながら、ひとを疑って。稼げる間になるべく稼いでおこうなんて……。どうしても、そんな汚らわしいことを考えなくっちゃぁ、生きられない……。
本来やりたかった、愛し、信じ、誠実に生きる生き方は……。自分たちには、もう出来ないと、諦めざるを得ない……。各地に「離散し寄留している人たち(1節)」とは、そういう、私ども人間のことです。

Ⅴ.
しかし、そんな私どもに対して、です。
この人間の罪と悲しみを、全部ご存じである神さまが。私どもには、帰る本国がある言ってくださるのです。今のこの世は、仮住まいの世であって……。いまのこの生活は、ほんの仮のものであって、祖国は別にある。そして、いつか本来の生活に帰ることが出来る……と、今日の御言葉は、伝えているのです。
「イエス・キリストに出会う」ということは、私どもが、そういう本来の、尊い生き方に出会ったということです。
聖書か、他のクリスチャンを通して、キリストさまの生き方に触れた時。天に、私どもの本当の生き方があったのだ……と。今は、仮住まいの生き方をしている、外国に居るのだけれども。自分には、帰る祖国が、天にあったのだ……と。イエスさまの生き方に触れて、キリストとの出会いを経験した時、私どもは、そういう希望を取り戻すことが出来ると思うのです。

Ⅵ.
「清い、尊い生活に憧れながら、しかし実際には、罪の中で生きている」のは、クリスチャンに限りません。全てのひとがそうですし。そんな人間全てのためにキリストさまが来てくださったのだとしたら。世の全てのひとが、そういう罪も汚れもない、尊い命に戻って行けるのかもしれません。人間みなが、尊い天に、帰る故郷を持っているのかもしれません。
しかし私どもは、それ故にこそ、です。私ども、教会に集まる者は、この世で、そうした天の故郷を証しするために神さまから選ばれた者だと思うのです。
今日の聖書は、私どものことを、「父なる神によって選ばれている人たち(2節)」と呼びかけます。全てのひとが救われるのだとしても、キリストとの出会いを経験するならば。私どもは、やはり特別に、神の救いの御業ために選び出されたのです。
人間が・みな、清い尊い神の作品であり、人間が・みな、本当は清い尊い生き方に憧れながら。人間みなが、罪深い生活をしています。
そして、多くのひとが、それを仕方がないと諦めています。清い尊い生き方に憧れるよりも、損をしない、騙されない代わりに信じることも愛することも出来ない生活が、すっかり当たり前になっています。
私どもも、同じように、罪を犯します。清い尊い生き方が出来ずに、損をしない、騙されない代わりに信じることも愛することもしない、そんな生活をせざるを得ないことがあります。それは、この世を生きる限りは同じです。
けれども私どもは、今のこの罪の生活が、「当たり前」ではない。「これじゃぁ辛い」、「これじゃぁ違う」と思うから。祖国を捨てて外国に来たのですし。今日は、毎日の面白おかしい日常の生活を捨てて、教会に来てみたのです。神さまの定めてくださった日曜日に、教会に引き寄せられたのです。
それを神は、神の選びであるとおっしゃいます。
自分で来ることに決めて、自分で地下鉄か何かに乗って来たのですけれども。それでも、ここに来てしまったのは、神が、私どもを選んで導いたのだと、聖書は言います。
そうなんだと思います。
今のこの生活が、自分に本当にぴったりとしているワケではない……と。全ての人間の心の隅には、必ずそういう迷いがあります。
私どもは、その不安を無理矢理もみ消して、ただ面白おかしく生きているんじゃぁ、ありません。何か足りないから、ある人は熱心に祈り、忠実に礼拝を守るために、ここに来ました。何か足りないから、別の人は、今日は教会に行ってみようと。そういう志を立てました。
私どもは、自分は「今の生活では、足りない」と。それを認める勇気を持っています。だから、教会に来ることが出来ました。それは、私どもが特別に勇敢だから/勇気があるから/賢いからじゃぁ、ありません。神が、導いてくださった……。この世にありながら、永遠の世界を思い巡らす神の智恵を、私どもに、今日の朝は注ぎ込んでくださったのです。
神に「選ばれ、御霊のきよめにあずかっている(2節)」とは、そういうことです。
神の導きの中で、聖なる尊い生き方への憧れを取り戻した人が、集められたのです。だから私どもは、今日、天に本国があるという神さまの祝福の言葉に、こうしてこころを傾けることが、出来たのです。

Ⅶ.
特に選ばれて。こうして神の選びにこころを傾けている私どもには、「恵みと平安が豊かに加わ(2節)」ります。私どもには、平安があります。
平安とは、異邦で暮らす困難が、すっかりなくなってしまうことでは、ありません。苦しみの中にあって、今日は、その苦しみが去らなくっても。天の故国に帰る希望があるということです。
私どもは今、こうして礼拝で、天の、永遠の正しさと、永遠の愛の方を向いています。いま居る場所は、罪のこの世ではあっても、正しく永遠の天の方向を見ることが出来ています。教会で。神の御言葉によって、また私どもの祈りによって。天の故国に帰ることが出来るという希望を、聖霊さまから注がれています。だから、具体的には困ったことの中にあるとしても、平安である。恵みが豊かであるということなのだと思います。
ですから……。私ども、この世にある間、天の本国への憧れを、しっかり自覚して過ごしたいと思います。
私ども、たとえ罪のこの世であっても、自分は善く生きたいです。ひとが自分を苦しめても、それでも相手を愛し、相手を信じて生きたいです。でも、そういう正しい生き方が、出来ても出来なくっても。神に選ばれた私どもは、ひとを愛して、ひとを信じて生きる、尊い生きかた、天の本国での生き方に、もう方向付けられているのです。
だから清い尊い生き方への憧れを忘れないで。そういう正しい生き方、本来の仕合わせに、必ず帰ることが出来る。いつかは戻ることができるという希望をしっかりと抱いて、過ごしたいと思うのです。
今日、この週の主日は、神さまから特別に選んでいただきました。他のみなさんに、天の故国への憧れを、証しして過ごしたいと思っています。
そうすれば、この世にあっても。私どもの周りから、天の神の国が、少しづつ広がって行きます。今週、喜びと仕合わせを、周りのみなさんに少しでも広げて過ごしたいと願っています。

2005年6月12日
ソウル日本人教会
主日礼拝説教

旧約聖書【出エジプト記 第23章9節】
新約聖書【ペトロの手紙Ⅰ 第1章1~7節】